鎌ケ谷大仏コース

スタート

1.新京成線 鎌ケ谷大仏駅 

所在地 鎌ケ谷市鎌ケ谷1-8-1

 

徒歩5分

2.鎌ケ谷八幡神社 百庚申・庚申道標 

 元は、大仏十字路付近にあった庚申塚上に所在していたもの。中央の1基は寛政7年(1795)に造立されたもので、 側面には 「東 さくら(佐倉)道」 「西 こがね(小金)道」と刻まれており、道標を兼ねていた。

昭和63年12月指定

所在地 鎌ケ谷市鎌ケ谷1-6

 

庚申道標の画像

徒歩4分

3.鎌ケ谷大仏 官軍兵士の墓 

官軍兵士の墓の画像

 慶応4年(1868)、江戸幕府の滅亡に反発した旧幕府軍の一部と鎮圧に向かった新政府軍とが、市川・船橋周辺で激しい戦いをした。その折、鎌ケ谷大新田付近で、新政府軍側の佐土原藩(現宮崎県宮崎市佐土原町)の士分1名(俗名:蓑毛次右衛門)と兵糧方1名(俗名:巳之助、兵糧を輸送した農民と思われる)が戦死した。ここにはその当時、佐土原藩の弔い料により建てられた墓石と明治19年(1886)に新政府軍側の戦死者に対して千葉県の官費で建てられた墓石がある。  この新政府軍と旧幕府軍の戦争による死傷者の数はわかっていない。新政府側の兵士の墓はこのようの所々で確認できるものの、旧幕府軍の戦死者は、当時、墓石に名前を刻むことすら難しかったため、ほとんど確認できない状態である。しかし、下総地方には幕府直轄の牧場があったなど旧幕府軍に与する傾向があり、一部で脱走様と呼ばれる旧幕府軍兵士の墓と思われるものも存在する。

昭和47年3月指定

所在地 鎌ケ谷市鎌ケ谷1丁目5

 

徒歩6分

4.魚文の句碑 

 「ひとつ家へ 人を吹き込む 枯野かな 魚文」(銘文) 松尾芭蕉の流れをくむ俳人三級亭魚文が、旅の途中で鎌ケ谷宿を通った時に詠んだ句と思われる。 「明和元年(1764)、武陽産高橋氏建立」とある。木下街道の道標を兼ね、「右 木をろし道」「左 中木戸道」と刻まれている。  木下街道は古くは木下河岸と行徳河岸を結ぶ輸送路として、その後も江戸から鹿島方面への参詣や銚子方面へ向かう人々で賑わい、鎌ケ谷宿にも多くの文人墨客が往来していた。古くは松尾芭蕉が弟子を伴い「かしま紀行」を残している(貞享4年(1678))。また、渡辺崋山は文政8年(1825)に鎌ケ谷宿付近で「四州真景図」の「釜原」を描いている。鎌ケ谷市役所1階ロビーにはこの絵を模した壁画がある。

昭和47年3月指定

所在地 鎌ケ谷市東鎌ケ谷1丁目7

 

魚文の句碑の画像

徒歩9分

5.野馬の水呑み場跡(調整池) 

野馬の水呑み場跡(調整池)

小金中野牧内にあった野馬の水飲み場の一つ。谷津の先端で、水の湧き出る場所であった。溜池になっており、かつては、池の周りに野馬土手をめぐらせ、数箇所口をあけて、馬が飲みやすい場所から水を飲めるようにしていたとされる。

徒歩5分

6.野馬土手(鎌ケ谷1丁目) 

徒歩9分

7.清田家の墓地 駒形大明神 

牧士清田家の墓地の画像

 清田家は江戸幕府の命をうけ、小金・下野牧の牧士役を13代にわたって世襲した。牧士は野馬の管理を行ない、野馬捕りや将軍の鹿狩りの際には、勢子人足たちを指揮した。また、苗字帯刀の他、乗馬や鉄砲の所持も許されていた。

昭和48年10月指定

所在地 鎌ケ谷市鎌ケ谷3丁目3

 

コース情報